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2016 - 04 - 15

日本語が曖昧だと言われる理由

私たちは日本語でモノを考える以上、日本語を論理的に運用することが「論理的思考」の大きな支えとなります。
論理的である表現は、相手に伝わりやすくなります。

 

前回は私たちが思考の手段として使う「言葉」、
すなわち「日本語」についてお話しました。

 

私たちは日本語でモノを考える以上、
日本語を論理的に使うことが
論理的思考の大きな支えとなります。

 

 


 

 

そもそも「論理」とは、
他者意識が強いほど明確になっていくものだと感じます。

 

 

たとえば、英語。

 

英語は論理的な言語だと言われます。
英語は多民族国家の中で生まれました。
いろんな民族が混在する中で、
他者意識が強くなるのは必然的なことです。

 

 

なので、必ず「主語」を必要とします。
主語を省略してしまうと、命令文となります。

 

 

それに対して、
日本語は論理的な言語ではないと言われます。
日本語は島国日本の中で生まれました。
狭い世界の中の言語です。

 

 

なので、必ずしも「主語」は必要とされません。
情報の共有をしやすい環境にあります。

 

そのため、学生時代に平安時代の古文を
勉強したときに手こずったように
昔から「主語」を省略されることが多々あります。
それは、狭い世界の中だからです。
さらに言うと、
昔は主語を明示しなくても、身分階層がありましたから
「敬語表現」に着目すると
自ずと主語を共通認識することが可能でした。

 

時が過ぎて、
現代日本は平安時代と比べると
とても広い世界へと変わっていきました。
ですので、主語を省略することはあるものの、
主語が変わるときには、それを明示するようになりました。

 

 

日本語の中でも他者意識が強い表現場面は、
文字化された文章です。
読み手が誰だかわからない不特定多数の人へ向けて
書いた日本語だからです。

 

名文を書かれる筆者が
現代にもたくさんいらっしゃいます。
そういう筆者の人たちも
必ず「論理」を文章化しています。
筋道を立てて文章を書いているのです。

 

そのような文章を読むということは
作者の「論理」を辿ることです。
それが「読解」と言われる方法です。

 

 


 

 

 

論理的に表現する難易度は、
このようになるかと思います。

 

 

「書く」→「読む」→「話す」→「聞く」→「伝える」

 

 

論理的に「書け」なければ、
論理的に「読む」ことも「話す」ことも、
ましてや「聞く」ことも「伝える」ことも
できないことになります。

 

 

今、私はその論理的に
日本語で表現する「原理原則」を
まとめる作業をしております。

 

自分の反省と備忘録を兼ねて、です。

 

私も決して論理的な日本語を
使っているわけではありません。

 

ただ、国語に携わっていたこともあり。
日本語に関して少しだけ意識が高いので
思考を整理しやすくするための
「原理原則」をある程度パターン化して、
何かチカラになれることがあれば・・・
という想いです。

 

 

「言葉」は、「思考」です。

 

 

言葉を整理できると、
思考も整理できます。

 

「言葉」は、あくまでも思考を整理するための手段です。